女神さまによろしく

ココロとカラダはつながってる。本当の命を生きるために。

悪い子の自分を出すということ

仕事の日は頑張って、休みの日はやりたいことをやるわけでもなく、無駄に時間を過ごしてしまう。

これは、いつもみせられない悪い子を表現しているらしい。知らなかった。

 

休みの日までやるべきことをサクサクこなして、好きなこともできるという充実した予定を過ごしていたら、悪い子が出る幕がない。

効率よく過ごした結果、何もない時間ができてしまったら、そこで悪が吹き出してしまうだろう。向き合いたくないことに向き合うことになると無意識に知っているのだろう。

 

だから、仕事を終わらせない。

やることがあるから、私はそれをやる人間です。

 

やることがなくなった私に、何もしてない私になんの価値があるのか?面白い人間なのか?

 

私をみせることから逃げている。

悪な自分、いていいよって言えれば。

休みの日の怠惰な自分を責めることもない(笑)

 

そもそも普段から我慢せずに悪(だと思っている)な自分を出しておけば、貴重な休みの日にまとめて付き合うこともない。

 

嫌なことは嫌だと言って、悪い子を表現しているつもりでいた。それもよかったのだが、ちょっとズレていた。

本当に悪い子を表現するということは、自分で悪な自分を認めているということ。

嫌なことは嫌だと言って、罪悪感にまみれているうちは、悪な自分はいちゃいけないと思っている。

嫌だと言えずに態度に出すのも、嫌と言っていいって許可出せてないよね。

大人になるということ

周りの人が子供ばかり。

僕の話聞いて聞いてー!だったり。

愛されたくて人の言いなりになってたり。

 

親は両方とも子供。

私の方が大人だった。

だから私は大人だと思ってた。

 

結構子供のまま大人やってる人、多い。

 

周りが子供ばかりってことは、私も子供なのだ。

話が合わない人がいるけど、たぶんその人が大人。

 

大人になりたい。

 

今まで、合わない人や苦手なこともがんばって、ストレスたまって、親に泣きつく代わりに過食嘔吐してた。

 

そもそも苦手なこと頑張りましょうってしなくていいのだ。泣きつく親もいないし、いろんなこと知る段階ではなくてもう職業選ぶ段階なのだから、最初っから得意なこと選んで、苦手な人も極力会わないように調整していいのだ。

 

がんばったのに、労ってくれる人がいない!って騒がなくていいのだ。労ってもらわないといけないような仕事なんてしなくていい。溢れんばかりに与えるべきところで、ムリして頑張って消耗してるなんて効率が悪い。

 

付き合う人は選んでいい。それは大人だから。どう生きるかを決めていい。てか決めなきゃダメ。なんでも体験はできない。受け身でくるもの拒まずでお任せしてもいいけど、潜在意識が奴隷ならそういう人が来ちゃう。しっかり設定すること。

仕事のやり方も自分がやりやすいように決めていい。

 

 

思い込みを外すだけでいい

問題が起こる。

思い込みを持っていることに気づく。

この思い込みいりません。神様助けてください。

 

これだけで、気づいたときには現実が変わってる。

思い込みを外すのにいろいろトレーニングしないといけないと思っていた。

話すの苦手なのに、頑張って人に話しかけてみるとか。

結果は頑張ってるのが伝わるから、不自然すぎて人が離れていくか、上から目線で話を聞いてもらうだけ。変に利用されたりするし。

 

友だちがいないという思い込みを外す。うまくしゃべれないという思い込みを外す。

 

そうしたら、合わない人とはムリに合わせなくていいと思うようになり、目の前の人と友達になれないことが、悩みではなく当然のこととなった。

目の前の人と相性がいいなんて偶然すぎる。むしろ心が通いあうような友達はなかなか出会えないので、出会えたら大切にして関係を楽しむこと。それ以外の人とはそれなりにお付き合いすること。適当にしゃべること。

 

一気に解決。ないに注目するのをやめただけ。

 

思い込みを外すのに、神様にお願いするだけでいいこと。これは人に習った。

 

なんでそれだけでいいのだろう?もちろん仕事ができない、できるようにいろいろ工夫するなどで経験を積むことも学びの一つ。

 

でも、神様にお願いするとラク。

思い込みがあるということに気づくこと。見方を変えるだけで世界が変わって見えること。その違いを体験させたいだけじゃないのか。さらには神様の存在に気付かせること。自力で解決する!って神様に勝とうとしないこと。

 

この思い込みを外すって決めて、すぐには叶わないときがある。その前段階で感情の解放があったり、関連がないような思い込みを外すことになったり。大きな願いには、叶うステップがあるらしい。きついけど。

時間の使い方

期待されて頑張るのもうムリ。

ただ私を可愛がってほしかった。

 

頑張ることで、母から注目を集めてた。

 

感情がもう固まってしまってて、甘えることもできないし、子供らしく受け取ることもできなかった。

 

小さい頃の私は可愛かったんだって。写真みたら確かに笑ってる。確かに心から笑ってる。

母から、七五三の写真(3歳)を見せてもらうときに「かわいいよ、よだれ垂らさんでね。」って何度も言われた。母にとっては、すごく可愛かったんだろうな。

 

小学校に上がる頃から、笑わなくなったんだって。

 

今のインナーチャイルドはよく笑う。可愛い。頭ぐしゃぐしゃーってしたい。

 

大人になって、ピアノを弾いたら、「これだけ人前で弾けたらいいね」って言われた。

 

喜んでほしくてピアノを弾いたのに。子育て成功したって満足されても。

 

 

はあ、期待しないでくれと思っているから仕事ができなかったんだ。

 

自分のために、やる。

時間に追われたくない。

やらなきゃいけないことがあって、逃避している感じが落ち着いた。そして時間ないって騒ぐ。

それ心が休まらないから、ずっとハードワーク状態だから。

やることがなくてそわそわする時間。なにをするか、何に時間を使うのか自分で選ぶ。

 

お金はできたのに、時間の使い方はまだ苦手。

頑張る作法

頑張る。

頑張ったら人に厳しくなってしまう。

つい人を攻撃してしまうレベルまで頑張らないようにすると、実力をセーブしているみたいで、サボってる感じがする。

他人からできてない!って責められる。

結局のところどこまで頑張ればいいのかわからない。

 

人に八つ当たりしないといけないほど頑張るのはやりすぎ。

やりすぎというか気分の選択を間違っている。

自分がるんるんでベストパフォーマンスを出せる状況で、幸せなまま仕事をするのだ。

仕事は辛いものって思い込みをまず捨てる。

 

誰も頼んでない。心で繋がれなくて、あんたがいるから大変だって空気を醸し出す人など。

 

誰も助けてくれない、誰も面倒みてくれない…は思い込み。助けてもらいたくないんだよね。そんな屈辱、思い知りたくないと。自由がなくなるなんてゴメンだと。

さらに…助けてって言って助けてもらえなかったらどうしよう、ため息とかつかれたらどうしよう、誰にも助けてもらえない私とかみていられない。

 

助けてもらいたいと思ってる。それもそもそも違う。

私は私を助ける。人と私は対等であって、面倒をみるみてもらうの関係ではない。それぞれに得意不得意なところがあって、それを「お願い手を貸して」って言うだけ。

そこに恥ずかしいとかこわいとかいらない。

 

もちろん頑張って技術を手に入れた人は怒るかもしれない。お前も頑張れって言うかもしれない。それは、その人が助けてほしいって言ってるだけだから、違う人に頼もう。その人余裕ない。そこ傷つかない。

 

 

嫌いって言っていい理由

一緒にいる人を選ぶことにしました。

 

好きな人といると、テンションが上がるし、心から笑顔になれるし、どこからか喜びが湧いてくる。なんにもしなくても、魅力的な自分でいられるし、自然となにかしてあげたくなる。

労力がいらない。

 

合わない人といると、笑顔を作るのに労力がいる。居心地悪くて不機嫌になりそうだけど、失礼に当たらないように演技をしないといけなくて、余計なエネルギーを使う。

結果、自分のセンターからズレまくって思ってもないことを言ってしまう。ムダなコミュニケーション。消耗する。

 

エネルギーバンパイヤじゃない。単にこっちがセンターからズレた分、エネルギー使ってるだけだ。

 

合わない人に、合わせない。接しなくていいならそれが一番だけど、仕事や親類などで接する場合は、愛を送る。でもさらりと、いい加減でいい。

 

本来こっちが合わないと思えば、むこうも肌が合わないはずだ。そこで好きだと追いかけられるなら、その人にはなにか執着があって、別の人を追いかけている。本音じゃないからそれ。真面目に聞いてあげなくていい。

 

感覚が死んでなければ合わないってことがわかるはず。

 拒絶される学びもさせてあげる。それは冷たくない。

 

ワンネスとは

人を愛することは自分を愛すること。

 

人を愛さないことは自分を愛さないこと。

 

人を愛すれば、じわーって気持ちよくなる。愛そうとするより、勝手にハートが開いている。愛されてるってじわじわ感じる。私が愛していて、私が愛される。注)相手から愛されるのではない。

 

人を無視すると、自分の心の声も無視する。心が冷たくなって自分が寂しくなる。

寂しさをさらに隠して、孤立していく。

 

私が私らしくいられない人も、愛していい。

自分を愛するように愛して。ただ相手のニーズがイヤなら答えなくてよい。それをも受け入れないといけないと思っていた。愛情をもって、一緒にいてあげる。だけど、自分がどっかいっちゃうほど、相手の要求を聞かないこと。

 

どうしてそれが腑に落ちたのだろうと思っていた。

そもそも人は、この感覚があるのだ。だけど、頭で考えるようになって、感覚を殺した状態で、私とあなた、愛する人と愛される人って、肉体が離れているのを見えるままに、それに合うように解釈を曲げた。損得で判断するようになって、与える=受け取るが理解できなくなってしまった。

 

ハートを開いて、頭をoffして、感じればわかる。